林檎の香りから始まるマティとコーラスの初恋1
落雷
校内の温室に隣接されたガーデンから声が聞こえて、コーラスは好奇心から足を踏み出した。
木々や花々に囲まれたそこには、席につき何やら作業している男と数人の女子学生がいた。
「良い香り! マティくん、ありがとう」
「どういたしまして」
「マーティンくん、私にも作って欲しいな」
マティ、マーティン──マーティン・ヨハンソン。あいつか、とコーラスの眉間に皺がよる。
この間の顔合わせ──リレラ・ベーレンスの指導を受けることになった件だが──ではいいようにあしらわれた。コーラスにとっては憎々しい存在だ。
凡庸で地味で華がない男。つまらない男だと思う。まさかあんな男にこの自分が後れを取る羽目になるとは。
そんな男をきゃあきゃあと持ち上げる女子学生たちを、コーラスは少し遠くから見つめていた。
◇◇◇
女子学生たちが去り、ガーデンに静寂が訪れる。
さわさわ、と風が木々を揺らした。木漏れ日がマーティンの髪を柔らかに照らす。
「やあ。君も来てたんだ、コーラス」
「……君がいるってわかってたら来なかった」
そっか、と少し笑いを含んだ声が聞こえた。むっ、としてコーラスは彼の元へ足を進める。
「彼女たちにね、サシェを作ってたんだよ。クローゼットや鞄に入れておくと良い匂いがするんだ」
小さな麻袋をコーラスに見せながらマーティンが言う。体に合わないサイズ違いのシャツから彼の痩せ細った手首が見えた。
「ちなみに材料は薬学の教授から廃棄分を貰ってね。実習で使う材料を入れ替えるんだって」
「お金取ってなかった?」
テーブルに広げられたドライフラワーの欠片に指先で触れながら、コーラスは思ったことをそのまま口に出した。
マーティンはさきほどの女子学生からサシェの代金を受け取っていたはずだ。確かにその現場を見た。
「お小遣い稼ぎ。僕もリレラさん同様、苦学生だからね」
ふふ、とマーティンが笑う。コーラスが「せっこ……」と呟くと、彼は声をあげて笑った。
「僕は噂ほど聖人君子ではないからね」
泣くほど笑ったのかマーティンは目元を拭っている。
なんだか胸がむかむかして「君が聖人君子なんて今はじめて聞いた。別にどうでもいいけど。興味なんてないし」と苛立ちを隠しもせずコーラスは言ってやった。
「まあ、君はそうだよね。どうやら僕は君のお眼鏡に適わなかったようだし。……君の評価は妥当だと思うけどね」
微かにマーティンから滲み出た負の感情にコーラスは身構える。今はここに彼と自分の二人きり。この間の仕返しをするなら絶好の機会だろう。
というかこの男、容姿のことを言われたのを実は結構気にしていたのか、と今更ながらコーラスは焦った。酷いことを言った自覚はある。「視界に入れたくない」まで言った。自分の言葉で傷付いたのかな、どうだろう。何故だか冷や汗が止まらない。
そんなコーラスの困惑をよそに、マーティンは穏やかな声で話を続けた。
「ねえ、コーラス。君はどんな香りが好き? 爽やかな柑橘系? それともローズやバニラかな?」
でもそういうのは女の子たちが持っていってしまったなあ、とテーブルの上を見つめながらマーティンは言う。目に留まったらしい小枝の匂いを嗅いでいた。
「そうだ。君は恋ってしたことある? 君は『恋多き男』そうだよね」
マーティンは小枝の先を唇に当てながら微笑を浮かべている。この笑みはどうにもコーラスの癪に障る。余裕ぶった態度も、一度目が合えば視線が外せなくなるアースアイも。心臓の奥の方がざわめいていた。
自身を落ち着かせるように、ふー、と息を吐いたあとコーラスは答えた。
「数の話に限るなら、そう見えるのかもね。でも僕は綺麗なものは分け隔てなく愛を注ぎたいだけ。そこに性別も人数も時間も関係ないよ。なにか文句ある?」
「いいんじゃない。人それぞれだと思うよ。何に対しても恋愛感情を抱かない人だっているわけだし」
僕は特定の誰かを、というのはまだないなあ、とマーティンは残念そうに言いながら、テーブルの片隅にあったドライフラワーを魔法で浮かせていた。ふんわりと林檎の香りが漂う。それは小さくて何の変哲もない麻袋へと仕舞われた。
「林檎はね、〝初恋の香り〟なんだって。甘酸っぱくて少し切ない恋の香り」
檸檬じゃないの、とコーラスが問うと、それはキスの味だよ、と返ってきた。
マーティンの唇がゆっくりと動くのをコーラスはじっと見つめていた。キスという単語と、目の前のマーティン・ヨハンソンという男がどうにも結びつかなくて、不思議な感覚がした。
「君にあげる」
とん、と手のひらに小さな麻袋が置かれる。
「……代金は」
「いいよ。どうせ余り物だしね」
コーラスは彼の顔を見れないまま、ただじっと自分の手のひらの上を見ていた。
マーティンが杖を一振りすると、テーブルの上は何事もなかったかのように、いつもの姿に戻った。
◇◇◇
コーラスは自室に戻ってから、貰ったサシェをぼんやりと眺めていた。
綺麗なものを見ると胸が躍る。わくわくして、ずっと手元に置いておきたいと思う。その美しさが損なわれないように。そして称えるのだ。かつて女神の美しさを称えた詩人のように。
──けれど一体この気持ちはなんだ?
素朴な麻袋に、いつでも嗅げる林檎の香り。ただそれだけ。それだけだ。なのに。
初恋の香りなんだって、と話す彼の姿と林檎の香りが、脳裏に焼き付いて離れなかった。
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2022.02.08
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