林檎の香りから始まるマティとコーラスの初恋2
苦虫
綺麗なものが好きだ。きらきらと瞬く宝石や硝子、まるで生きているかのような彫刻、細やかな装飾たち、湖に映る光の道、夜空に輝く億千個の星たち。
それらと出会ったとき、胸がどきどきと高鳴って、僕はたまらなく嬉しくなる。
けれど、何故だろう。この林檎の香りは、どうしようもなく僕の胸をじくじくと蝕んでいくのだ。
「はあ……」
あの日、コーラスはマーティン・ヨハンソンから林檎の香りがするサシェを貰った。
それを手に持ち見つめたまま、もう午後になるというのに、コーラスはベッドで横になっている。こんなにも怠惰な生活は普段あまりしない。だが、未だに起き上がれないでいた。
『初恋の香りなんだって』
マーティンの声がコーラスの頭の中で何度も何度も再生される。彼が持つ柔らかな雰囲気や、麻袋を受け取るときに微かに触れた彼の肌の温度も。
もやもやというか、じくじくというか。腹の奥の奥の方が痛んで、コーラスは無意識に体を丸くする。苦しい。こんな気持ちは初めてだった。
ふと、窓の向こう──学生寮の中庭から賑やかな声がした。
どこかのグループがピクニックでもやっているのだろうか。ブランケットを頭から被ったまま外を見た。
そしてコーラスは慌ただしく身支度を整え、自室を飛び出した。
◇◇◇
「……なにやってるの」
思いのほか低い声が出て、コーラス自身少し驚いた。といっても、目の前の男はなにも感じなかったようだが。
あんまり急いで飛び出してきたから、どこかおかしくやないかと不安で、コーラスはつい自分の前髪に触れる。
そんな思いに気付きもしないマーティン・ヨハンソンはいつもどおりの優しい笑みを浮かべて言った。
「やあ、コーラス。教授に中庭の花壇の植え替えを頼まれてね。バイトだよ」
「ふうん」
先ほどの声は教授とマーティンとたまたま中庭にいた生徒達のものだったらしい。〝植え替え〟と聞いて周りにいた連中は散ったのだろうか。
見たところ、マーティンは現状植えてある植物を鉢に移動させているようだった。もうすでに色々なところが土で汚れている。
──これ、ヨハンソン一人で全部やるのかな。結構量があるし、大変じゃないかな。体が弱いって聞いたことあるし。
「……僕、手伝ってあげようか」
別に深い意味などない。ただの親切心で、気が向いただけ。断じて特別な意味などない。断じて! とコーラスは自分自身に言い聞かせる。
「え?」
マーティンがきょとん、とこちらを見つめていた。
ああ、彼の瞳は様々な色が混ざったアースアイなのだと、今このとき初めてコーラスは気が付いた。まるで小さな惑星のようだった。
「ありがとう。でも大丈夫。人手は足りてるから」
マーティンにあっさり断られ、コーラスはむっとした。
「この間のサシェのお礼! それ以外に理由なんてないし! 勘違いしないでよ!!」
「あれは余った材料で作っただけだから気にしなくていいよ……。君、思ったより律儀だね」
困ったように笑いながらマーティンが言う。
その様子が、なんだか、コーラスの申し出を断るための理由を探しているように見えて無性にむかむかした。そしてコーラスが想定したとおり、彼はもう一度断りの言葉を口にした。
「でも本当、大丈夫だから。品種的にかぶれたりすると悪いし」
「僕がかぶれて怒るとでも思ってるわけ!?」
「いや、ちが……。いや、違くないか。その可能性はあるよね。というか君、実験で薬品がはねて『かぶれた!』ってペアの子に危害加えたことあったよね?」
「やったけど今日はしないし!」
「どうかな──あっ」
マーティンが視線を向けた先をコーラスも追う。パタパタと誰かがこちらに向かって走ってきていた。
野暮ったくうざったい前髪を持ち、自室で食人木を育てたという──ユリウス・アーキンだった。初対面のときに顔を見ようと手を伸ばしたら、彼のサボテンで拒否されたことは記憶に新しい。
何事にも無関心でぼんやりした子、という認識をコーラスは持っていたが、今日のユリウスは違った。瞳がきらきらと輝いており、元気いっぱいだ。
「マティ~! その子は先に鉢の土を濡らしておかないと!」
〝マティ〟? ぴくり、とコーラスの眉間に皺が寄る。
「ああ、そうなの? ごめんね、ユウ。やり直すよ」
「僕がやる!」
ユリウスはマーティンが持っていた鉢を奪い取るようにして、植え替え作業を始めた。その手際の良さにコーラスもマーティンも一瞬魅入る。
はっ、と我に返ったコーラスに、マーティンは三度目となる断りの言葉を告げた。
「ほらね。人手は足りてるんだ。それも〝植物マニアさん〟のね」
マティ、早くやらなきゃこの子たちが弱っちゃうよ! と叫ぶ声に、はいはい、と彼は応えていた。
コーラスは大きな足音を鳴らしながら、外廊下を進んでいく。
なにそれ! なにそれ! なにそれ!!
この僕の申し出を断るだなんて、ヨハンソンのくせに生意気すぎる! それにあのユリウス・アーキン! いつの間にヨハンソンを愛称で呼ぶほど仲良くなったんだ!
この世のすべてが癪に障る。頭が沸騰しそうだった。怒りと焦りと悔しさとほんの少しの寂しさが渦巻いて、どうにかなりそうだった。
コーラスもユリウスも、マーティンと出会ったのは同じく〝あの日〟だったはずだ。なにがどうしてこうも違ってしまったのだろう。
「僕だって……」
その先の言葉は、冷えた廊下に反響して、消えて行った。
ある日の朝、マーティンは植物以外にてんで興味が持てない困った問題児を、部屋からどうにかこうにか引きずり出していた。
「ほら、ユウ。ちゃんと起きて。授業に遅れる」
「ん~……」
ユリウスの代わりにマーティンが教科書類を持ってやって、他に不足がないか確かめていると、廊下から焦ったような声がした。
部屋から廊下を覗いてみると、そこにはコーラスに氷でできた縄で拘束されたユリウスがいた。
「え!? コーラス!? なっ、なに!? はなしてえええ!!」
「これからは僕がアーキンの面倒みるから! ヨハンソンは〝噛みつき魔〟の面倒でも見ればあ?」
コーラスはびしっ、とマーティンに向けて指を指すと、そのままユリウスを連れて行ってしまった。
問題児に拉致された問題児を、マーティンはそのまま見送った。
◇◇◇
空き教室にカリカリと、ペンが動く音が響く。
教室で向かい合って座っているのはマーティンと──東洋出身で珍しい魔法を扱う──コーキ・リカラだった。
「なんで俺がお前の補講を受けることに……」コーキが呟く。
「文句を言わない。コーラスにユウを取られちゃったからね……。ちょっと手持ち無沙汰で」
「手持ち無沙汰で俺の補講をやるんじゃねえ! つか、いらねえし!」
コーキは手が付けられないので基本的に先輩であるリレラ・ベーレンスの担当だったが、こってり彼女に絞られたようで、最近ではマーティンの指導も素直に受けるようになっていた。
彼は文句を言いながらも手を動かし、マーティンが出した課題を躓くことなく解いていく。
「知ってるよ。コーキがやれば出来ることくらい。だから頑張りなよ。コーキの成績が上がればリレラさんも喜ぶよ」
「なんであの女のために俺が……」
コーキが嫌そうに片眉をあげてマーティンを見る。
「なにせこの指導、歩合制だからねえ。知ってる? リレラさん、お姉さんと二人きりで暮らしてるんだって。学費もお姉さんが頑張って貯めてくれたらしいよ。コーキがちょっと頑張れば、リレラさんもお姉さんも少しだけ楽になるんじゃないかなあ?」
軽快に動いていたペンの動きがぴたり、と止まる。
「……それを聞かされて頑張らなかったら俺は悪魔かなんかじゃねぇか」
「うんうん。頑張ろうね、コーキ」
だーっ、くそ! と叫びながらコーキは課題へと戻った。
マーティンは頬杖をつきながら、集中しているコーキをじっと見つめていた。
この指導が入ってからコーキは、成績をいつも最低ラインぎりぎりで保っている。だが次の試験ではそれなりの結果を出してくれるだろう。
コーキがリレラを好いているのは目に見えて明らかだ。人前では『クソ女』やら『クソババア』だの悪態をつくが、二人きりのときは案外静かに会話しているのを見たことがある。
あの二人の間でなにがあったかは知らないが、良い変化をもたらすのなら〝恋〟というのも悪いものではないだろう。
ふと窓に目をやると、しとしと、と雨が降っていた。
先日植え替えたばかりの植物たちにはちょうど良い頃合いだ。それと同時に、『手伝ってあげようか』と言う彼の顔が思い浮かんだ。
「……一体どういう風の吹き回しなんだろうね」
未だ行動原理の掴めない彼のことを、マーティンはぼんやりと考えた。
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2022.02.21
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