春夏冬朋也と佐久間秋良の見聞録
1.亡者の貢献
錦糸町の駅前から少し外れた位置にその店はあった。時代遅れな蛍光灯が青白い光で店内を照らす。棚にはなんとも形容しがたい形をしたカラフルな電池仕掛けのオモチャが陳列されていた。サンプル品を手に取り、電源を入れると、ヴヴヴッと耳に付くバイブ音と共にそれは勢いよく震えだした。問題はなさそうだ。
店内を見回った春夏冬朋也(あきなしともや)は寂れたアダルトショップのレジに戻る。レンズが分厚い黒縁の眼鏡をくいっと上げると、不審な動きをする──どうも未成年らしい──少年が視界に入った。彼が手にしているのは「0.02ミリ」をしつこく主張するスキンだった。どうするつもりなのだろう、と春夏冬が直視はしないよう監視を続けていると、彼は薄いスキンが六個収められた箱を鞄に入れた。万引きだ。
ああ、めんどうくさい。春夏冬は溜め息をついた。お世辞にも綺麗とは言いがたい姿勢がさらに丸くなる。そもそもこの店は未成年は立ち入り禁止だ。それをお目こぼししてやったというのに、しかも、格安コンドームではなくそれなりのコンドームを万引きしようとは、なんて図々しい輩だろうか。
春夏冬はレジ下に隠されたボタンを押す。店から出て行こうとした少年は開かない自動ドアに勢いよくぶつかった。
「万引きは犯罪ですよ。それに君、高校生だよね?」
少年の顔がみるみる青ざめていく。それもそのはずだった。春夏冬が「110」と打ち込まれたスマートフォンのダイヤル画面を見せていたからだ。
固まったままの彼の鞄から春夏冬は財布を抜き取る。近くの有名な進学校の学生証を見て、少年の名を呼んだ。彼の肩がびくり、と震える。
「駄目じゃん、進学校に通う君がこんなことしちゃさ~。きちんと代金は支払わないとねえ」
春夏冬は財布から五千円札をすっと抜き、指先で弄ぶ。ひらひらと少年の鼻の先で揺らして見せたあと、身に付けているピンクのエプロンのポケットに入れた。
五千円札は少年の今月の昼食代として親から渡されたものだが、春夏冬が知ったことではない。これから少年が半月ほどひもじい学生生活を送ることになったとしても。
春夏冬は口元を歪ませ悪魔のような笑みを浮かべ、囁いた。
「……お前の顔と名前、覚えたからな」
今にも泣き出しそうな顔をしながら少年は自動ドアを無理矢理開けて店から出て行った。
春夏冬は再びレジに戻り、ボタンを押し、自動ドアの動きを元に戻した。そうしなければ他の客が入れない。
コツコツ、と店内にヒールの音が響く。はて、と春夏冬は首をかしげた。あの少年の他に、中に客などいただろうか。
グレーのパンツスーツに身を包んだ女性が春夏冬の前に現れる。緩やかなカーブを描いた黒髪のショートカットに、整った顔立ち。好みか好みではないかと問われると、はっきり言えば、彼女は春夏冬の好みだった。清純そうな彼女がこんな場所にいることに下世話な好奇心を隠しきれない。一人で来る女性客は珍しい。
彼女は周りの品物には目もくれずに、真っ直ぐに春夏冬のいるレジへと向かって来た。ガラス玉のような瞳が春夏冬を捉える。
「春夏冬朋也さんですね?」
「はあ。そうですが……?」
頬杖をついたまま春夏冬は顔を仰ぐ。彼女は一枚の名刺を差し出した。
名刺の左側には警視庁のオレンジ色のイメージキャラクター、そして「警視庁刑事部捜査第二課」と記載されていた。捜査二課と言えば詐欺や横領といった知能犯罪を扱う部署だ。
春夏冬は頭が痛くなってきた。今すぐにここから立ち去りたい。しかし、そんなことをすれば怪しまれるだろう。そんな気持ちはおくびにも出さず、名刺を見つめるふりをした。
「警視庁捜査二課の佐久間秋良(さくまあきら)です」
「春夏冬」に「秋」とは。ずいぶん愉快な組み合わせだ。ふっ、と春夏冬が鼻で笑うと、秋良の目が少しだけ細められる。彼女の気に障ったようだった。
「それで? 刑事さんが僕に、何か御用ですか?」
秋良の瞳がちらり、と泳ぐ。
刑事というのは本題に入る前に世間話をして、対象の緊張を解くことが多い。あろうことか彼女は、レジ横に置いてあった小型ローターを見つめながら尋ねる。
「これはなんですか」
「……女性向けのラブグッズです。キュートなフォルムで高性能。小型なのにハイパワー。いつでもどこでも場所を選ばずに使用することが出来ます」
いつでもどこでも場所を選ばずに使用する奴なんているかよ、と思いながらも春夏冬はパッケージ裏に書いてある説明文をそのまま読んでやった。秋良は顔色ひとつ変えず、そうですか、と呟いた。
まさか今のが春夏冬の緊張を解くための世間話だとは思いたくはない。が、もしそうならば、この女は頭がおかしいか、それか恐ろしく会話が下手かのどちらかだ。もしかするとその両方かもしれない。
「……すみません。仕事以外の話はあまり得意ではなくて」
春夏冬の視線の意味を感じ取ったのか秋良がばつが悪そうに言う。だろうな、と春夏冬は思った。
手だけで彼女に話の続きを促す。
「春夏冬さんに捜査の協力をお願いしたいのです」
「……僕に?」訝しげに春夏冬が尋ねる。
「はい。貴方のお力を見込んで」
力とは。春夏冬は自分自身の能力をよく理解していた。〝あれ〟のことだろうと思った。
けれど、警察に協力する義理はない。好きか嫌いかと問われると、嫌いの方に振り切れている。
「嫌です。お断りします」
春夏冬にはっきりと告げられ秋良は面食らっていた。おそらく彼女は、今まで捜査協力を拒否された経験がないのだろう。
「誰が好き好んで警察なんかに協力してやらないといけないんですか」
「春夏冬さん、それはどうして……」
秋良が口を開くと春夏冬がすかさず話し出す。
「あっ、なんで協力したくないかって聞くのも無しですよ。そもそも、そんなことに答える義務はないですし。職質だって本来は任意でしょ? 断る権利もあるのにネチネチネチネチと。断ったら断ったでネチネチネチネチと。あ~、やだやだ。だから点数稼ぎとか言われるんですよ」
「……警察に何か恨みでも? 後学のためにご教示願えませんか?」
「では言わせて頂きますけど。佐久間さん、でしたっけ? 僕の経歴を調べた上でここにいらしてるわけですよね? そちらのご厄介になったこと、知らないわけないですよねえ? そんな僕が、何故、警察に協力するなんて思えたんですか? おめでたい頭にもほどがありますよ」
春夏冬は一気に言葉を吐き出す。すう、と吐き出した空気を取り戻すように息を吸い込んだあと、秋良の顔を見た。
「話したいことはそれで全部でしょうか」
秋良が無感情に言う。
春夏冬の想定では、彼の言葉に彼女は気分を害してそのまま帰るはずだった。しかし、目の前の秋良は冷静なままだ。
「春夏冬さんが私に協力してくれる理由、それを探していました」
「はあ?」秋良の様子を窺いながら春夏冬が応える。
「先ほど、このお店の品物を万引きした方がいましたね」
少年が立っていた場所を指で差しながら秋良が話す。
「万引きは窃盗罪にあたりますが、店側から被害届が提出されるまで警察では関知しません。とはいえ、万引き行為を盾に、不当な金銭の搾取を行うことは恐喝罪が適用される可能性があります。彼が盗もうとしたのは六百円ほどのコンドーム、貴方が彼から受け取ったのは五千円。金額が釣り合いません。『今回は大目に見た』といった言い訳も通用しないと思います。私が見た限り、かなり手慣れているようでしたし」
「……それは」
春夏冬は一瞬言葉につまる。だが、すぐにまた口を開いた。
「でも、証拠はありませんよね。貴方の目撃証言だけで起訴なんて無理でしょう?」
秋良がスマートフォンを操作する。彼女が画面をタップすると、先ほどのやり取りがしっかりと納められた動画が再生された。
「彼からもお話を聞けば、十分、起訴可能だと思いますよ」
目の前の女が示しているのは「お話」なんて可愛らしいものではなく、「告訴状」のことだろうと春夏冬は思った。迂闊だったと反省する。みすみす警察に有利な情報を与えてどうする。
「協力して頂けますよね?」
答えは一つしかない。春夏冬は深い溜め息をつく。
「……どうせ、そうするしかないんでしょ」
春夏冬の不満が混じった承諾を聞いて、彼女は初めて微笑んだ。
◇
トヨタクラウンの中で春夏冬は事件の概要を秋良から聞かされた。
一昨日、独り暮らしの女性が自宅マンションで殺された。被害者は近隣住民とは交流がなかったようで、事件解決に役立ちそうな有益な目撃情報などはなく、警察は怨恨の線で交際関係を洗った。そこで発覚した事実が、被害者女性が〝詐欺師〟だということだった。
秋良がハンドルを左に切ったとき、春夏冬は疑問に思っていたことを尋ねた。一抹の不満を滲ませながら。
「どうしてこの事件にそんなに拘るんです? これはわざわざ僕を引き摺りだしてまで、という意味ですけど。しがない詐欺師が殺されたってだけでしょう? 捜査一課は詐欺グループの仲間割れだって見てるそうじゃないですか」
「情報通ですね」秋良が苦笑する。
架空請求詐欺グループが仲間割れの挙げ句、殺人を計画した首謀者をリンチ、悲惨な殺人事件を引き起こしたことを春夏冬は覚えていた。
今度は車が右折した。春夏冬の体が右に傾く。手持ち無沙汰にシートベルトをぱちん、と指で弾く。
「詐欺グループと言っても、個々で詐欺を働くような詐欺師が警察の捜査情報を共有しているだけです。大それた詐欺を働くわけじゃない。細々とした金額を騙し取る、そういったグループです」
「少額なら警察も動きませんしねえ」
春夏冬の言葉を聞いて、秋良がちらりと否定する旨の視線を向けた。
「一応訂正しますが、そんなことはありません」
「どうでしょう」
春夏冬はわざとらしく分厚い眼鏡のブリッジの位置を指で直す。
秋良はすでに前を向いていた。ハンドルの操作を行いながら、春夏冬さん、と名前を呼んだ。
「詐欺師が殺しをすると思いますか?」
「必要に迫られれば、やるんじゃないですか。そういうケースだって別に珍しくないでしょ」
「……春夏冬さんなら殺しますか? 本業で──詐欺行為という意味ですが──ミスを犯したわけでもないのに?」
一瞬、ぴりっと車内に緊張が走る。
アームレフトに肘を掛けながら、横目で彼女の表情を盗み見たあと、春夏冬は溜め息をつく。
「僕ならやりません。基本的に詐欺師はそういったリスクが高いことはやりたがらない。そういう人種です。それに、もし僕が被害者の立場なら、グループ内で仲間割れしたとすると、まず逃走するでしょうね。揉め事は極力避けたいですから」
「同感です。とはいえ、殺人を〝リスクが高い〟で片付けられるのは些か不服ですが」
「いやだなあ。ちょっとした言葉のあやですよ」
春夏冬は両手をあげて、その件について秋良と議論するつもりがないことを示す。『殺人』という行為を嫌悪しているのは春夏冬も同じだ。
車が赤信号で停まる。
助手席の背もたれにもたれ掛かり、ちょうど腹のところで両手を組んだ春夏冬が唐突に発した。
「他にもあるでしょう」
「何がですか?」
「理由。どちらかと言うと、そちらの方があなたにとって重要なんじゃありません?」
秋良は何も答えなかった。信号が青に変わり、車が発進する。
静かな車内の中で春夏冬が窓から流れていく風景を見つめていると、ぽつり、と秋良が唐突に呟いた。
「……『怒り』を感じたんです。現場に、並々ならぬ怒りを」
ぐっ、と秋良が握るハンドルに力がこもる。
春夏冬は茶色の瞳を秋良に向けた。それほど悲惨な現場だったのだろうか。
そうだとすれば怨恨の線が濃厚だろう。被害者は詐欺師。なら自動的に詐欺の被害者が被疑者となってもおかしくはない。だが、被害額が少額のため警察では被疑者リストから外したのだろう。それか、騙されたと気付いていないか。
どちらにせよ詐欺グループの仲間割れ説を覆すには、秋良の主張は問題外だ。刑事の勘なんてものは理由にならない。単なる個人の統計だ。
春夏冬は薄く笑みを浮かべる。
「第六感って奴ですか~? そんな非科学的なもの持ち出すのやめてくださいよ」
「茶化さないでください。おそらく、春夏冬さんなら見て頂ければわかると思います」
秋良は三十分二二〇円のパーキングにトヨタクラウンを停めた。
少し歩いたところに築二〇年ほどのマンションがあった。エレベーターで五階まで上がる。左に曲がって、二つ部屋を通りすぎたところが被害者、川西和歌子(かわにしわかこ)の部屋だった。
秋良が鍵を差し込んでドアを開ける。現場検証はもう終わっているようで、春夏冬は靴にビニール袋をかぶせろとは言われなかった。
玄関で靴を脱ぎ、廊下を真っ直ぐと進む。突き当たりにあるドアを開けると、どうやら間取りは1DKのようでダイニングキッチンへと出た。
春夏冬は部屋の惨状に足を止める。
「……確かにこれは、詐欺師の仕業じゃないでしょうね」
まだ清掃業者は入っていないらしい。床にこびりついたままの血が赤黒く固まっていた。争ったように部屋の中は乱れていた。引き摺られた跡もある。暴力的で衝動的な行為。
春夏冬は秋良の言っていたことがわかったような気がした。
「これは爆発的な怒りです。その一方で非常に手慣れている。ほら、ここ」
一度ダイニングキッチンを出る。廊下の壁を指さした。壁には何者かに殴られ、へこんだような跡がある。
「まず警告の暴力。躊躇がない。おそらく犯人は日常的に暴力を振るっていたんでしょうね」
廊下を思い切り殴り、川西和歌子を怯えさせようとした。圧倒的な力を見せつけて。おそらく犯人は男だ。知り合いか通りがかりかまでは春夏冬にはわからないが。
「死因は?」春夏冬が尋ねる。
「絞殺です。スマートフォンの充電ケーブルだと思われます。ベッドのヘッドボードから無くなっていたので」
「持って帰っちゃったわけですか。その犯人が」
「衝動的な殺人でしょうから、きっと凶器となったケーブルには指紋が残っているはずです。もっとも、まだ手元に置いているとも思いませんが」
「その言い方だとまだ凶器は見つかってないわけですね。警察は何してんだか。とっくに処分してるんじゃないですか? 僕ならそうしますから」
「……ごもっともです」
一通り部屋の中を見回ったあと、春夏冬は胡散臭い笑みを浮かべながら秋良に向き直る。
「で? 僕に何をしろと?」
「川西さんの後任として、仕事をしてください」
「つまり詐欺行為を働けと?」
春夏冬が想像した通り、被害者の詐欺行為は露見していないらしい。そして、目の前の佐久間秋良という人物はその中に犯人がいると考えている。
ガラス玉のような瞳がじっと春夏冬を見つめていた。感情が読み取れないその瞳が酷く気になる。何かを見透かされているような気がした。
「春夏冬さんなら簡単でしょう。『天才詐欺師』だった貴方なら」
にやっ、と春夏冬の口元が弧を描く。
「いいんですかあ? 警察がそんなこと指示して。それとも、僕をダシに殺人犯でもおびき寄せるおつもりですか? そんなおとり捜査、違法なんじゃありません?」
「春夏冬さんはできるだけ被害者から情報を引き出してください」
「それがご命令だと言うのであれば従いますけど。なんたって天下の警察からの要請ですからねえ」
「ええ。お願いします」秋良は表情を変えずに淡々と言った。
◇
翌日、春夏冬が指定した喫茶店に出向き、秋良に声をかけると、彼女は驚いたように目を見開いた。
「……春夏冬さん?」
秋良が驚くのも無理はない。ぴしり、と皺一つ無い紺色のスーツに身を包み、銀縁のスクエア型の眼鏡をかけ、髪をオールバックにした春夏冬のことを「アダルトショップ店員」と思う者はまずいないだろう。姿勢や歩き方すら変わっていた。
「本日はこう呼んで頂けますか」
春夏冬は『ビューティ&プライド株式会社 化粧品美容プランニング事業部営業一課 加藤浩二(かとうこうじ)』と書かれた名刺を秋良に渡す。
かとうこうじさん、と秋良は呟いた。
注文したコーヒーを啜りながら春夏冬は足を組む。秋良が名刺と見比べるように春夏冬を見つめるので、にこり、と自信たっぷりに微笑んで見せた。
秋良が運転するクラウンの助手席で、春夏冬は資料を確認していた。
それは被害者である川西和歌子が詐欺を働いていた被害者のリストだった。もっとも、警察に被害届は出ていないため、川西がクラウド上に保存していたリストファイルをプリントアウトしたものらしいが。ご丁寧に被害者の特徴や趣味までメモされていた。春夏冬は人差し指で空中に文字を書きながらそれを見つめる。
ウィンカーを点滅させた後、秋良が春夏冬に話しかける。
「なんだか生き生きしてらっしゃいますね。……加藤さん」
「そうですか? あ、それと二人きりの時は〝春夏冬〟のままで結構です」
「喫茶店で会ったとき、春夏冬さんの服装が普段と違うので、少し驚いたんです」
にやり、と春夏冬の口の端が上がる。あまり感情を見せない秋良を驚かせたことに、春夏冬の心はじわじわと充実感で満たされていた。
浮ついた気持ちを見透かされないように、春夏冬は落ち着いた低い声で答えた。少しばかり饒舌だったのは否めない。
「後任として仕事をしろとの依頼でしたからね。『初頭効果』ってご存知ですか? 心理学用語なんですけど。最初に受けた印象が強く残るというやつです。ようは第一印象が重要で、『いい人そう』『できる営業っぽい』と思わせることが詐欺を成功させる第一歩というわけです。川西和歌子はスキンケア用品のセールス詐欺をしていたんでしょう? なら僕もそれに化けないといけないかなあ、と思いましてね。見た目から入るのが一番ですから」
「なるほど」
秋良は興味があるのかないのかわからない声色で相づちを打った。
それから数十分車を走らせたあと、パーキングに止まった。シートベルトを外す音がする。
秋良のガラス玉のような瞳に春夏冬が映った。
「少し打ち合わせをしましょう。いいですか?」
「ええ」
秋良の話によると、詐欺師であった川西和歌子はこのパーキングから程近い集合住宅の住人をターゲットにしていたらしい。
つまり春夏冬の仕事場も〝そこ〟になる。
「ちなみにあのリストを全部回るんですか? 結構な数ですよ?」
「一応回ってもらえますか」
「別に僕は構いませんけど。あっ、これ経費で落ちますか?」
近所のコンビニで購入したミネラルウォーターを振る。
「可能だと思います」
「すごいですよね、最近は。有名な湧水がコンビニですぐ手に入る。一体運搬費にいくらかかってんだか」
春夏冬はペットボトルについたラベルを丁寧に剥がす。そして自前のラベルに貼り直した。
ラベルには「体を中からキレイにする! コラーゲン入りミネラルウォーター」と書いてある。嘘だらけだった。そもそもコラーゲンは水に溶けにくい。低水温でゆっくり溶かせば可能だが、春夏冬は詐欺の小ネタのために、わざわざそんな面倒なことはしない。
秋良は少し見咎めるような視線を春夏冬に向けたが、見なかったことにしたらしく、話を変えた。
「春夏冬さん、これを付けてください」
「録音機ですか? 信用がないな」
「信用の有無ではなく、これは情報収集のための依頼ですから。私もリアルタイムで聞いてます」
どうやら秋良は車の中で待機するつもりらしい。春夏冬は彼女のノートパソコンに音声解析ソフトが立ち上がっているのを見た。
春夏冬が車から出ると、ウィン、と窓が開いた。秋良の声が聞こえる。
「加藤さん、あと一つだけ。ニュースではまだ被害者が詐欺師だったという情報は出ていません。場合によっては亡くなったことはご存じかもしれませんが」
「承知しました。お任せください」
ぴしっと斜め四十五度のお辞儀をすると、春夏冬は集合住宅へと歩きだした。
春夏冬はまず余語(よご)きよみという女性を訪ねた。川西のリストには専業主婦とあった。おそらくターゲットのほとんどがそうだろう。
受けた印象としては、四十代後半の女性、話好きでワイドショーをよく見る。郵便物や玄関の飾り物から夫の趣味は読み取れない。どうやらこの家は妻の方が強いらしい。どうりで川西に狙われるわけだ、と春夏冬は思った。
きよみは春夏冬に手渡された名刺を食い入るように見つめている。
「川西さんの後任?」
「はい。本日はそのご挨拶に参りました」
営業向けの爽やかな笑みを浮かべながら春夏冬は言う。
「余語さまが特に気になる点などヒアリングさせていただければと……」
「でもずいぶん急ねえ。川西さんに何かあったの?」
話を遮るようにきよみが口を開く。きよみの瞳が背後に隠された秘密を探るように煌めいた。
春夏冬の口角がほんの少しだけ上がる。
「……実はですね、ここだけの話なのですが……。以前担当していた川西にクレームが入ったもようでして。きよみさまはそういったご不満を感じたことはございませんか? 些細なことでも構いませんのでお聞かせいただければと……」
突然春夏冬が下の名前で呼びかけたことにきよみは気付きもせず、「あら、クレーム?」と驚いたように重たい瞼を上にあげてみせた。「ええ、そうなんです」と相づちを打ちながら春夏冬はなにかないかと促す。
「特に思いつかないわねえ……。川西さん、本当にいい方だったから。私たちの悩みにもとても親身になってくださって。しみもシワも老化なんだけどねえ!」
きよみが大声で笑い飛ばす。その言葉に嘘はないようだった。
実際、詐欺被害として警察に届けていないことからも、両者の関係は良好だったことはわかる。
きよみのことを健康的に年を重ねた女性、と春夏冬は感じた。正直、春夏冬にとってしみもシワも気にならないが、本人が気になるのであれば、スキンケア商品を売り付けるセールスとしては否定する必要もない。そこを突けばなんなく物は売れる。川西にとってもやり易かったに違いない。
ふと、きよみがなにかを思い出したように頬に手を当てながら呟いた。
「ああ、そういえば……。川西さん、こんなこと言ってたわね」
「なんと?」
「『きよみさんのお宅は旦那さんと対等でいいですね』って」
春夏冬は一瞬言葉に詰まる。
なにを思っての発言だったのか。『隣の芝生』理論だろうか。もしそうだとすると川西の狙いがわからない。わからないので、単純な失言だろうと春夏冬は解釈する。
「……それは、もしかすると、他のご家庭との比較しての言葉かもしれませんね。ご不快になられましたら大変申し訳ございません」
春夏冬は深々と頭を下げる。きよみは気にしていないという風に、手を大きく横に振った。
「いいえぇ、全然気にしてないわよぉ! 川西さんが心からほっとしたように言ってたから、すごく印象に残っててね。それに私も、今でこそ笑い話だけど、身に覚えはあるから。夫のお金を使いにくい時期があったのよね……。ずいぶん若い頃の話だけど。きっと、川西さんが訪ねたご家庭もそうだったんでしょうねぇ……」
遠い目をしたままきよみが言う。
もしかすると川西の発言は『個人的な統計』によるものなのかもしれない、と春夏冬は思った。客から「買おう!」という感情を引き出すための。
けれどどこか、漠然とした疑問が残ったままだった。
今回はあくまでも捜査の一環のため、商品を売り付けることはしないが、それなりのセールストークをしたあと、春夏冬は余語家から出ることにした。
きよみから川西について引き出せそうな情報をすべて引き出したのだし、問題はないはずだ。
「本日は大変ご貴重なお時間を割いていただき、ありがとうございました。今回ヒアリングさせていただきまして、次回、しみやシワに効果のある商品を持って参りますね」
「あら、本当? 楽しみにしてるわ~」
なにかを思い出したように春夏冬は鞄の中からミネラルウォーターを取り出す。保冷カバーをつけていたのでまだ冷えていた。
「よろしければこちらを。今キャンペーン中のコラーゲン水でして。きよみさまにぜひ試して頂きたく思います」
「まっ! ありがとう。いただきます」
「それでは失礼致します」
丁寧に深く頭を下げ、春夏冬は余語きよみの家をあとにした。
それから五件ほどまわると、春夏冬が身に付けていたラウンド型の腕時計が十二時を指していた。内ポケットに入れていたスマートフォンが震える。液晶画面を確認すると秋良からの着信だった。
「はい」
「加藤さん、一旦戻ってください。昼食にしましょう」
秋良と合流し、適当に入ったうどん屋はランチタイムもあって混んでいた。待ち行列へと並ぶ。
「僕の昼食って経費で落ちますか?」
「多分、落ちません。加藤さんの分は奢りますよ」
「そりゃどうも。捜査協力で報酬がもらえるのって明確な基準でもあるんですか? 監視カメラ設置の協力なんかはもらえるらしいですけど」
「捜査協力者や情報提供者には支払われますが、一般捜査費になるので所属長に申請しなければなりません。結局はそれが通るかどうか次第ですね」
「なるほどね。それで『多分』ですか」
ちょうどテーブル席が空き、春夏冬と秋良が店内へと通される。待っている間にメニューを決めていた二人は席に着くなり注文した。
春夏冬の席からはテレビが見えた。昼のワイドショーを映している。ときおり挟まれる、番組とコラボしたわざとらしいコマーシャルが耳に入ったのか、秋良が〝先ほどの行為〟について尋ねてきた。
「加藤さん、帰り際にミネラルウォーターを置いていってましたよね。あれはどういう意図があるんですか?」
「『ピーク・エンド・セオリー』というやつです。人の記憶というものは、ピークからエンドにかけて受けた印象が強いんです。たとえば、遊園地なんかのアトラクションで長時間並んで辛かったとしても、アトラクションに乗ってしまえば、『楽しかった!』という記憶しか残らない。だから、プレゼントなんかで印象付けたいときは、去り際に渡すのがもっとも効果的です」
「加藤さんを見てると勉強になりますね」
「警察でも尋問なんかには有効なんじゃないですか」
お待たせしました、と店員に声をかけられる。春夏冬が注文したカツ丼がきたところだった。
本当はカレーうどんを食べたかったのだが、白いシャツに撥ねては大惨事だ。
秋良の手元にはおろし冷やしうどんがきていた。どことなくクールな彼女にはぴったりだと春夏冬は思った。サイドの髪を耳にかける仕草をじっと見つめていた。
きっちり一時間の昼休憩を挟んだあと、春夏冬は再度活動を開始した。
その中でもひときわ印象に残ったのは相原しのぶという専業主婦だった。
インターホン越しにも感じる懐疑、他者を入れないという排他的な雰囲気。本当に彼女は川西のターゲットの一人なのだろうか、という疑問すら感じた。川西の名を出したことで、なんとか玄関までは入れたので確かに関係はあったのだろう。
玄関で会った相原(あいはら)しのぶという女性は、疲れたような、ぼんやりとした表情をしていた。生気が感じられない。この状態を、春夏冬はどこかで見覚えがあった。
「川西さんの後任、ですか……」
「そうなんです。なにぶん急なものだったので、お恥ずかしい話、引き継ぎが上手くいっていなくてですね。しのぶさまのお悩みなどヒアリングさせていただければと思いまして」
「悩みなんて……。私には別に……。いいです。無駄ですから」
しのぶは春夏冬と目を合わせない。彼女が自分自身に自信を持っていないように感じた。
「そんなことはありませんよ」
春夏冬がなんの気もなしに言う。突如、しのぶは急変したように声を荒らげた。
「いいえ! そんなことあるんです! 放っておいてください!」
しのぶの変わりように春夏冬が驚きを隠しきれないでいると、彼女はハッとしたように、すみません、と囁くような声量で謝罪した。
「川西さんも、色々勧めてくださったんですけど、主人から許可が下りなくて……」
自身を慰めるように、しのぶは二の腕を撫でさすっていた。
「……そうですか。では、また日を改めまして。ああ、そうだ。今キャンペーン中のコラーゲン水があるんですよ。ぜひお試しください。それでは失礼致します」
「はあ……」
半場強引にしのぶにミネラルウォーターを押し付け、春夏冬は相原家をあとにした。
リストに載っていたすべての家を訪ね終えると、春夏冬は秋良が待機している車内へと戻った。「お疲れ様です」という言葉とコンビニコーヒーが手渡される。ミルクやシュガーはセンターコンソールに置いてあった。春夏冬はミルクだけいれた。
「余語きよみさんのように好意的な家もあれば、相原しのぶさんのような家もあって、ずいぶんバリエーションが豊かですね」
「まあ、どちらにせよ、殺すような動機があるとは思えませんねえ」コーヒーを啜りながら春夏冬は答える。
「……ええ。そうですね」
ノートパソコンをタイプしていた秋良の指が止まる。なにかを考える素振りを見せたあと、彼女はもう一度口を開いた。
「そういえば、あまり乗り気ではないターゲットからはずいぶんとあっさり退くんですね」
「無理なら退くのが一流。だから川西とかいう女は三流詐欺師です。あんな家までリストに残して執着するなんて」
春夏冬が指していたのは相原しのぶのことだった。自分にスキンケアは無駄だと言い、夫の許可がなければ購入できないときた。詐欺のターゲットとして成功率が低いのは確かだ。
ふと春夏冬が秋良へ視線を向けると、彼女はじっとこちらを見つめていた。彼女の瞳に街の光が反射する。
「あのリストに何らかの意図が組み込まれているとしたら、どうでしょうか?」
「……どういう意味ですか?」
「相原しのぶさんは詐欺のターゲットではなく、なにか、別の理由で訪問していたのではないでしょうか」
「別の理由?」春夏冬は不可解な面持ちで答えた。
「春夏冬さん、相原しのぶさんについて何か気付いた点はありませんか? なんでもいいんです」
秋良の言葉にはどこか必死な、縋りつくような雰囲気があった。それに引き摺られるように春夏冬の思考も、先ほど会った相原しのぶに向かう。
しのぶを見てまず思ったこと。それは。
「……覇気がない」
あれは心神耗弱だ。自分自身の意思が感じられない。春夏冬は以前、マインドコントロールされた人物を見たことがあるが、しのぶの状態はそれに近いのだと思い出した。
「あの家は異質です。パワーバランスが夫に偏りすぎている」
川西が扱っていた商品はけっして高額なものではない。平均的なものであり、相原しのぶの家庭であれば十分手に届く代物だ。それなのに「夫の許可がなければ購入できない」と彼女は言った。
セールスの断り文句として確かにこの理由は有効だが、それなりに高価なものに対して使用するのが一般的だろう。それは家庭内で相談する必要があるからだ。少額であれば相談する必要はない。自分の意思で決めればいい。もし自分にとって不要であれば「いらない」と言い、断ればいいのだ。しかし、しのぶにはその権利がない。
春夏冬は玄関先で観察したことについて秋良に話した。
「音声だけですからそちらではわからなかったでしょうが、あの家、綺麗過ぎるんですよ。家事が行き届いているというべきか。もはや強迫観念の域です」
突然の訪問にも関わらず、あの家の玄関にはごみひとつ、髪の毛一本落ちていなかった。すべてが完全に整っていた。誰かのためだけに整えられた家で、そこに相原しのぶが含まれているようには思えなかった。
「余語さん、川西さんにこう言われたと話してましたよね。『きよみさんのお宅は旦那さんと対等でいいですね』と」
秋良の言葉に春夏冬はハッとする。
「もしかして──あれは相原しのぶの家と比較していた?」
「その可能性が高いと思います」秋良が頷く。
「春夏冬さん、相原しのぶの配偶者にも接触してみましょう」
「それなら、明日また訪問すれば会えると思いますよ」
春夏冬の自信たっぷりな発言に、秋良は不思議そうに首を傾げた。
◇
「セールスはお断りです。お帰りください」
次の日、春夏冬が相原しのぶを訪ねると、インターフォン越しに配偶者である相原健一郎(あいはらけんいちろう)に開口一番に言われた。理性的で有無を言わさぬ声だった。
健一郎がいることは春夏冬にとっては想定内の事象だ。インターフォンのカメラ越しに、にやり、と口角を歪ませてみせる。
「本日は小学校はお休みですか? ああ、そうか。創立記念日だから教師の皆さんもお休みなんでしょうね」
「なぜそれを……」一瞬、健一郎がたじろぐ。
面識のないセールスの男に職業を当てられるのはさぞ気味が悪いだろう。自分のことを調べ上げたのかと思うはずだ。確かに、警察官である秋良の力を借りれば容易に手に入る情報だ。しかし、春夏冬は秋良が調べる前から彼の仕事を知っていた。
「あの女から聞いたのか? それとも妻からか?」
あの女とは川西和歌子のことだろうか。春夏冬は考えながら「どちらでもありませんよ」と答える。昨日、家に入ったときに見たものから結論づけただけだ。
少し落ち着きを取り戻した健一郎が静かに言う。
「……どちらでもいいことです。まだうちに居座るおつもりなら警察を呼びます」
「警察?」
なんだかきな臭い予感がした春夏冬はインターフォンのカメラに視界に入らないように、スマートフォンで秋良へコールした。おそらく異常を察した秋良はここへ来るだろう。いや、来てもらわなければ困る。それまで時間を稼がなければ。おそらく健一郎はもう通報している。
「そんなに身構えないでください。前任の川西について少しお話を伺いたいだけなんですよ。なにかご無礼なことをしたのでしょうか?」
「なにも話すことはありません。何度も何度も来るので迷惑でした。貴方もですけど」
この対応の早さや取り付く島もないところを見ると、やはり川西和歌子を追い払ったのはしのぶではなく健一郎だ。自分で決断することができないしのぶには無理だろう。つまり、川西といざこざがあったのは健一郎ということになる。
餌となるミネラルウォーターを置いていったのは正解だったと春夏冬は思った。思った通り、彼は過剰な反応を見せた。
ふと春夏冬は思い立つ。
「……実は、これは殺人事件の捜査なんです」
一拍おいてから「……なんだって?」と低い声が返ってきた。インターフォンのスピーカーから音がぷつり、と切れたかと思うと、その数分後に相原健一郎本人が玄関から現れた。
直接会って話せるのは春夏冬にとって幸運だった。電話越しに思い通りに動かす術も身に付けているが、直接本人を目の前にした方が手に入る情報は多い。
「どういうことでしょうか? つまり、貴方は警察だと? なぜ警察がセールスに扮して僕のところに?」
健一郎が言う。彼は冷静を装っていたが微かに動揺が滲んでいた。額がうっすらと汗ばんでいる。
「警察官なのは私ではなく、あの人です」
春夏冬はちょうどエレベーターから出て、こちらへ向かっている秋良を指さす。心の中では近くの交番の警察官よりも早く彼女が到着したことに安堵していた。
「貴方が警察?」
「はい。警視庁捜査二課の佐久間秋良です」
秋良が健一郎に名刺を差し出す。彼の眉間にシワが刻まれる。
「名刺……? 手帳はないんですか? もしかして偽警官なんじゃないですか?」
健一郎にとって警察官の名刺というのは馴染みがないものらしい。一般的に私服捜査官と知り合うことなどそうないので、当たり前といえば当たり前なのだが。
「刑事ドラマの見すぎですよ」
春夏冬が呆れたように言うと健一郎は眉間のシワをさらに一等深くした。彼は秋良を真っ直ぐ射抜く。
「警察だと言うなら警察手帳を見せてください。警察は捜査対象に手帳の掲示を求められたら従わないといけないはずでしょう?」
秋良は動かないままだった。春夏冬は怪訝な視線を彼女に向ける。
彼女の表情を見て、まさか、と思った。いや、そんな馬鹿な。信じられない気持ちだった。
共用の廊下からガチャガチャと重そうな音が聞こえて我にかえる。制服警官がこちらへ向かっていた。健一郎の通報を受けてやって来たようだった。彼は春夏冬と秋良を不可解そうに一瞥したあと、健一郎に尋ねた。
「相原さん、どうなさいましたか?」
「お巡りさん。さっき電話したセールスの人たちです。もしかすると、警察のふりをした詐欺グループかもしれません」
交番まで来ていただけますか、と制服警官から任意同行を求められたときも、秋良は黙ったままだった。
狭い交番の中で制服警察官と二人は向かい合って座る。彼は秋良の名刺をしげしげと見つめていた。警察手帳が提示されない以上、彼は秋良を信用できないようだった。
「警察官をかたると『軽犯罪法違反』にあたりますからね」
「……その点について、証明できる人物を呼び出しても構いませんか?」
春夏冬から向けられた不審がった視線には一切触れずに、秋良はどこかへ電話した。
それから数十分後、ひとりの若い男が現れた。
「佐久間先輩!? マジでなにしてるんですか! 牧原さんすっげー怒ってますよ!」
「すみません、石崎くん……。とりあえず私の所属の保証をしていただけますか」
交番に現れた男は石崎錦司といった。髪は短く切り揃えられ、若さゆえに生命力がみなぎっている。
春夏冬の印象としては単純で単細胞。警視庁捜査一課に所属する刑事で秋良の後輩とのことだ。冷めた目で説明を聞いていた。
石崎の言葉と、彼の警察手帳を見て制服警察官は秋良への態度を改めたようだった。警察のデータベースで彼女を照会したところ、二課の刑事だとわかったことも理由として大きかった。
「それで佐久間先輩、この人は?」春夏冬を見ながら石崎が尋ねる。秋良はそれをスルーし、制服警察官へと体を向けた。
「相原さんのお宅からの通報は以前にもあったのでしょうか?」
「ええ、二週間くらい前に一度。なので今回で二度目です。一度目のときはそのセールスの方というのがもう去ったあとだったので、近隣をパトロールするようにします、とお伝えしました」
「そうですか……。お会いしていないのなら、その方が川西和歌子だったかどうかの裏付けは取れませんね」
秋良が落ち込んだ様子で呟く。制服警察官はお力になれずすみません、と頭を下げていた。
突如、勢いよく石崎が立ち上がる。春夏冬は嫌な予感がした。第六感が告げている。
「牧原さんっ、お疲れ様です!」
「おう、ご苦労さん。これが例のセールスか?」
渋めの低音が交番内に響く。春夏冬の第六感はどうやら的中したようだった。振り向かなくてもわかる。
「どうもぉ~。お久しぶりです、牧原英勝刑事」
交番の入り口に牧原英勝が立っていた。五十代くらいの男だ。
牧原はカタギの人間とは思えない人相で、眉間には不機嫌そうな深いシワが刻まれていた。短く剃られた髪には白髪が交じっている。
「春夏冬……朋也……。お前、足を洗ったんじゃ……」
驚きを含んだ声で牧原が言う。春夏冬は頬杖したまま舌打ちした。
「そうそう。とっくの昔に足洗ってますよ。元・捜査二課で、僕のことをず~っと見張ってた牧原刑事ならよくご存知でしょう? なのにどっかの誰かさんに無理矢理引っ張られましてね~」
「どっかの誰かって、まさか……」
牧原はようやくもう一人の人物に思い当たったようだった。牧原がその誰かに目を向けると同時に、凛とした声が空気を震わせた。
「私です。私が彼に指示しました」
「秋良! テメーか!」牧原の額に青筋が立つ。
「捜査本部から追い出されてなにやってるかと思えば……。これが上にばれたらどうなるかわかってんだろうな!?」
「わかってます」
「わかってねえだろ!」
牧原の怒声と机を蹴りつける音が響く。石崎と制服警察官の肩がびくり、と震える。あまりの迫力に、誰も動けないままだった。
「いいか、謹慎中のお前には手帳がない。つまり捜査権はない。わかったら家に戻って大人しくしてろ」
主に凶悪犯から自供を引き出すために使うであろう牧原の鋭い眼差しと低音が、秋良に向けられる。けれど、彼女の表情は変わらないままだった。
とてつもなくシリアスな場面だ。だが、春夏冬には確認しておくべきことがあった。静寂をぶったぎって尋ねる。
「ちょっと話についていけないんですけど。誰か説明してもらえませんかねえ? 謹慎中? 手帳がない? ねえ?」
秋良と牧原が春夏冬を見たが、二人とも何事もなかったかのように視線を戻す。
牧原が秋良の鼻先に指を突きつけながら言う。
「いいか、被疑者は詐欺師グループの中にいる。さっさとあいつらの『誰か』を特定しねえと凶器が処分されるかもしれねえ。事態は一刻を争うんだ。お前の独断で勝手に捜査を荒らすな!」
「それはこちらだって同じです! 凶器のケーブルは一般家庭ならどこにでもあるような、ありふれたものです! 詐欺被害者の中に被疑者がいるという可能性はゼロではありません!」
秋良が力強く反論する。
ここ数日秋良と顔を見合わせた春夏冬としてはその熱さは意外なものだったが、石崎も驚いた表情を浮かべていたので、やはり珍しいものだったのだろう。
さきほどとはうってかわって、牧原は諭すように、ゆっくりと秋良に語りかける。
「秋良、お前はそれを捜査本部でも言ったな。上の捜査方針と真逆の意見だ。お前は命令に従わなかった。だから謹慎処分になった。わかってるよな?」
「……わかってます」
「二課のお前が詐欺師の肩を持ちたいのはわかるが、諦めろ」
ちらり、と牧原は春夏冬を見たあと、秋良へ引導を渡した。
春夏冬と秋良が事情聴取から解放されたとき、すでに空は薄暗くなっており、夜が近付いていた。
牧原と石崎のおかげで「秋良が警察官である」ということが証明され、なんとか解放されたが、秋良が最初から警察手帳を携帯していればこんな目には遭わなかったはずだ。春夏冬は腹立たしい気分だった。
トヨタクラウンの運転席に座る秋良からは未だに謝罪のひとつもない。春夏冬の言葉に棘が含まれるのも当然だった。
「相原健一郎に警察手帳の提示を求められたときに出せなかったということは、そもそも手帳はお持ちじゃなかったわけですねえ。謹慎処分中にも関わらず僕に捜査依頼を? 僕を騙したんですか? 騙した上で違法な捜査に協力させた?」
「……申し訳ありません」
無感情な声が車内に響く。春夏冬は返事をしなかった。
沈黙のまま車は走り続けた。それから数十分後、春夏冬が普段勤めるアダルトショップの前で停車する。春夏冬がシートベルト外し、車から降りようとしたとき、くいっ、と秋良に袖を掴まれた。
「春夏冬さん──!」
「あんた、とんだペテン師ですね。僕の詐欺師としてのプライドもズッタズタ。んじゃ、僕はこれで。もう一生関わりたくないです」
秋良の手を少し乱暴に振りほどく。春夏冬は閉められているショップの自動ドアに鍵を差し込み手動で開け、店内へと入った。
数分、秋良は店の前にいたようだったが、やがて諦めたのか、走り去るエンジン音が聞こえた。
◇
次の日、どうにも元気よく接客する気分にはなれず、春夏冬はレジカウンターに突っ伏していた。開店準備すらしていない。
この店はほぼ姿を見せない店長と春夏冬ひとりで成り立っているようなものなので、「本日お休み」にしても実質問題は無いのだが、休みにしたところでなにもすることがなかった。店の二階が春夏冬の住居なので帰って寝るなり風呂に入るなりすればいいのだが、行動する気力すら起きず、ただぼんやりと時間が過ぎていく。
誰かが自動では開かない自動ドアを手動で開けて入ってくる。春夏冬は目を細めた。店内の明かりは点けていないので薄暗かったが、背が高く、ガタイのいい男だということはわかった。
「すみませーん、今日は開けてないんですけど」
低い声で「客じゃねえ」と返ってくる。牧原だった。春夏冬は大袈裟な溜め息をついてみせる。
「なんすか?」
「春夏冬。お前、秋良となにを追っていた? 言え」
牧原の高圧的な言い方に春夏冬は少し不快になる。
だから警察官は嫌いだ、と思った。まるでなにか罪を犯したような気分になる。今回ばかりは被害者と言っても過言ではないだろうに。
「……別になにも」不満を隠さず春夏冬が言う。
「俺はお前をしょっぴいたっていいんだぞ」
「へえ……。どんな罪状で?」
ぎろり、と牧原の鋭い眼光が春夏冬へ向けられる。春夏冬の返事は彼の気分を害すことに成功したようだった。初めて会ったときからこの男のことは気に入らない。きっとお互いが感じていることだ。
牧原がふっ、と軽く息を吐き出す。煙草の臭いがした。
「秋良がお前になにを言って引っ張り出したか知らないが、関わるのはやめとけ。お前のために言ってやってるんだぞ。大人しくひっそりと暮らせ。……被害者遺族のためにもな」
春夏冬はなにも答えない。牧原はそれを「同意」だと判断したようだった。
「お前に〝正義〟の行いはできない」
牧原はスーツの胸ポケットから赤ラークを取り出す。「ここ禁煙ですよ」と春夏冬が注意すると「もう出る」と返ってきた。
念を押すように牧原が再度言う。
「俺の邪魔はするな。いいな」
自動ドアが手動で閉められる音を聞きながら、春夏冬は開店準備のために、ようやく重い腰を上げた。ぱちん、と明かりが点灯する。昔のことを思い返していた。
牧原が来てからぼんやりと考え込んでいたせいで、閑散とするアダルトショップに秋良が訪ねてきたことを、春夏冬は気が付かなかった。
秋良はレジカウンターでやる気なく頬杖していた春夏冬に向かって、深々と頭を下げる。
「春夏冬さん、お願いです。力を貸してください」
春夏冬は秋良と目を合わせない。ちかちかと光る古びた蛍光灯に照らされたAVたちを見つめていた。
それでも秋良は春夏冬から目をそらさない。はっきりと、よく通る声で、彼に告げる。
「彼女が何故殺されたのか、何をやろうとしていたのか、明かしたいんです」
一拍置いてから、なにか思い至ったのか秋良がすん、と匂いを嗅ぐ。店内を見渡し、誰もいないことを確認する。
「……誰か来客でも?」
「いいえ。冷やかしですよ」春夏冬がすげなく答える。
はあ、と深い息を吐いたあと、春夏冬はようやく秋良と目を合わせた。ガラス玉のような瞳に自分が映っていた。
胸の奥が微かにざわめく。そんな思いをかき消すように、春夏冬は小さく首を振る。
「貴方がそこまでこの事件に拘る理由がよくわかりません」
春夏冬はできるだけ冷淡な声を出す。
「はっきり言いましょう。僕は貴方を信用できない」
秋良の感情が読み取れない瞳が揺れた。腰の横に置いていた手のひらをぎゅっ、と強く握りこむ。
それを確認したあと春夏冬はさらに言葉を続ける。
「信じられないかもしれませんが詐欺には〝信用〟が大きく関わってきます。詐欺は人と人の商売です。詐欺師ほど信用を売っている人間はいない」
人工的な光に照らされた店内に沈黙が訪れる。
数秒、または数分後にか細い声が聞こえた。
「……詐欺師が売っているのは信用ではありません」
「それについて議論しても構わないですけど、するなら場所を変えてもらえます? ベッドの上とか。長くなりそうなんで」春夏冬が呆れたように答える。
最低なセクハラ発言だが、これに怒って秋良が帰ってくれるのであれば、春夏冬としては文句はない。
秋良は俯いたまま、小さく呼び掛ける。
「……春夏冬さん」
「なんでしょう?」
春夏冬はわざとらしい笑みを浮かべた。秋良はなにも答えなかった。けれど、彼女の瞳は言葉よりも雄弁に語る。この事件には別のなにかがある、と。
「貴方、優秀なんでしょう? どうしてこんな真似を? 出世街道から遠ざかりますよ?」
ふー、と深く息を吐く。こんなときに煙草でもあれば様になるのかもしれない。生まれてこのかた吸ったことはないが。ちらり、と憎い牧原の顔が浮かんで、馬鹿馬鹿しいと首を振った。誰があんな男に憧れるか。どうせ憧れるなら目の前の女刑事の方がまだマシだ。人間性的に。
先ほどから一歩も動かない秋良に春夏冬は視線を向ける。
「私は、川西さんが詐欺グループ間のいざこざで殺されたとは思えません」
「刑事の勘ってやつですか。冤罪のもとですねえ」
「貴方の勘が捜査妨害しているのかも、と考えたことはありませんか?」
「考えません。考えて迷いが生じた方が問題です」
「それは傲慢な考え方ですね~。『嘘の中に少しの真実を混ぜる』。詐欺師がよく使う手です。……いい加減、その勘の根拠とやらを話してもらえますか?」
春夏冬の言葉を受けて、秋良がぽつり、と話し出す。
「……彼女が亡くなる前、たまたま、お会いしたんです。二課で彼女は要監視扱いですから」
外に昼食を取りに行った先で秋良は川西と偶然会った。彼女は秋良を見て驚いていたが、ふわり、と楽しそうに笑ったという。
「『ようやくやるべきことを見つけた』とおっしゃってました」
やるべきこと。詐欺師だった川西和歌子が果たしたかったこと。秋良はそれをずっと考えていたのだろう。
上が絶対の警察という組織の中で、楯突いてまでも、彼女は〝川西和歌子〟という人間を信じている。
「彼女は元々DV被害者です」
春夏冬の指先がぴくり、と動く。それを隠すように「その後の社会復帰後に詐欺に手を染めたわけですか。非常に残念な話ですねえ」と言葉を吐いた。
春夏冬の態度など気にも留めずに秋良は話を続ける。
「彼女の言う『やるべきこと』とは一体なんだったのでしょう」
すう、と秋良が息を吸い込む音がする。
「命を懸けてまで行ったことが明かされないなんて、そんなの、あまりにも川西さんが報われません」
それは悲痛な叫びだった。もうなにも伝えることができない、死者の、悲痛な叫びだ。
ぽつり、と春夏冬は呟く。
「……犯罪者が更正するなんて、本気で思ってます?」
「環境と、変わりたいという意思さえあれば、可能だと思います」
秋良がはっきりと言い切る。そこにはなんの迷いも疑いもなかった。
目の前の佐久間秋良という人間は、もしかすると、性善説を本気で信じているのかもしれない。警察官のくせに。けれど、そんな人間だからこそ、手を貸してもいいかなと思えた。
春夏冬はがしがしと頭をかいてから、言った。
「……僕なりに探りましたよ。あの家」
「え?」
「相原しのぶがなにかを隠しているのは事実でしょう」
春夏冬は秋良に封筒を差し出した。
「はい、どうぞ。この貸しは高くつきますけど」
秋良が封筒の中を確認する。驚いたように目を見開いた。
「これは……。でも、一体どうやって……?」
「それは企業秘密です」
春夏冬は悪戯が成功したかのように笑ってみせた。
封筒の中には、相原しのぶが産婦人科にかかったときのカルテが入っている。川西和歌子が言っていた「やるべきこと」がわかったような気がした。
「春夏冬さんはどうして手伝う気になってくださったんですか?」
エンジンがかかったトヨタクラウンの中で秋良は尋ねる。春夏冬は助手席でネクタイを緩めるような動作をしながら答えた。
「牧原さんが赤いネクタイをしていたのが気になって」
「赤いネクタイ?」
「『パワー・タイ』です。色彩心理学において赤色は情熱、行動力、そして攻撃性をイメージさせます。つまり、あの人は今日被疑者をひっぱろうとしてる」
牧原にとっては今日が「勝負の日」なのだろう。川西和歌子が所属していた詐欺師グループの誰かを任意同行かなにかで引っ張り、自白を引き出そうとしているに違いない。
春夏冬は気だるげに助手席に座りながら、窓の向こうの景色を見つめた。
「別にあのおっさんが冤罪を作ろうがなにしようが僕には関係ないですけど。ただ、日頃の感謝? みたいなものが積もりに積もっていましてね。事件解決、無事冤罪作成! したあとに、明るみに出してやろうと思って暗躍していたわけです」
「私的な制裁は駄目ですよ」
やんわりと秋良が注意する。
「川西さんのためにも、牧原さんに冤罪を作らせないためにも、行きましょう、春夏冬さん!」
初めて出会ったときからは想像もつかないほど嬉しそうな大きな声を出して、秋良はハンドルを大きく回した。
そんな秋良を、春夏冬はほんの少しだけ可愛いと思った。
◇
健一郎は仕事を終え自宅のドアを開けた。普段であれば妻のしのぶが玄関まで出迎えるはずだが、その姿は見えない。一体なにをやっているのだか。食事の準備も掃除も、出迎えも、なにもかも完璧でなくてはならない。そう躾けたはずだ。これではまた折檻だ。
目を細めながら健一郎はリビングへと続く廊下を進む。扉を開けてもそこにしのぶの姿は見えなかった。
キッチンからこぽこぽと水の落ちる音がする。ほのかに香ばしい匂いが漂ってくる。
「どうも~、お邪魔してます。コーヒーでも淹れましょうか?」
その男の顔につい青筋が浮かぶ。セールスのふりをして家に訪ねてきた男だ。よく見ると偽警察官もいた。
「またお前らか! いい加減にしろ! 不法侵入だぞ、警察を──」
「それには及びません。警察ですから」
すっ、と女が濃い焦げ茶色の警察手帳を見せる。
「今度は『色が黒くない』とか言わないでくださいねえ? あれ、ドラマなんで」
にやにやとした笑みを浮かべた男は、勝手に人の家のマグカップでコーヒーを啜っている。その姿に頭に血が上ったが、どうにか猛った思いを静め、女の方に体を向けた。
「一体なんの用ですか。……しのぶはどこに?」
「わかりませんか? しのぶさんなら保護しました」
「は?」
つい手に力が籠もる。血管が浮き出ていた。
「相原健一郎さん、川西和歌子さん殺人容疑で署までご同行願います」
女の色素の薄い瞳が真っ直ぐにこちらを見据えていた。静かな波のさざ波のような瞳だった。けれど底知れぬ圧を感じる。それに飲み込まれぬように健一郎は声を張り上げた。
「はあ? 何を言い出すんだ、あんた達は! しのぶを、妻を、返してくれ!」
一歩前へ出る。手を伸ばせば女の胸ぐらを掴めそうだった。
がちゃん、と音が響く。「あ~、うっかり。割れちゃったあ」と気の抜けた声に気を取られる。どうやらコーヒーを飲んでいた男がマグカップを割ったらしい。怒鳴りつけようとしたとき、また女が口を開いた。
「そのしのぶさんですが、複数回流産されているようですね。DVの疑いがあります。保護し、貴方から隔離するのは当然の対応です」
ざあざあと波が立つ。大きな大きな波だ。押さえつけることの出来ない黒い波が健一郎に押し寄せてくる。
「たっ、たまたまだ! 一度流産すれば癖になる! 私のせいじゃない!」
「いいえ。貴方がDVを行っていたという決定的な証拠があります」
「そんなものない!」
「いいえ、あります」
「ない! それは──」
頭にあの女の顔がちらついた。壁を殴っても臆せず健一郎に向かってきた生意気なあの女の顔が。それが目の前の警察官の顔と重なる。強い意志を映したあの瞳と。
「貴方が処分したからですか?」
波の音が止まる。
「あの日、貴方は川西和歌子さんの部屋へ行き、口論になった。そして彼女を殺害しましたね?」
首筋に冷たいなにかが走った。
◇
健一郎が家に帰ってくる前に、春夏冬と秋良はしのぶと接触していた。数十分にわたるインターフォン越しの攻防の末、ようやく二人は彼女と顔を合わせて対話することが叶った。
「しのぶさん、貴方の証言が必要なんです」
出された緑茶に手を伸ばすことなく秋良が言う。春夏冬はずず、と緑茶を啜りながら、しのぶの反応を観察していた。
「川西和歌子はこの家を訪ねて、貴方の異変に気付いたはずです。彼女もまたDV被害者でしたから。貴方の力になろうとしたんじゃありませんか?」
「わ、わたしは……DVなんて、受けてません……。お、夫の機嫌を損ねる私が悪いんです……」
わかりやすくしのぶの視線が泳ぐ。膝の上では手がシワができるほど長スカートを握っていた。
「健一郎さんの機嫌を損ねたからなんだというんですか。それは、貴方が理不尽に虐げられていい理由にはなりません。誰かを蹂躙していい権利なんて、誰にもありません。ここは法治国家です。法で裁かれるべきです」
秋良が強くも弱くもない声で言う。それには胸に迫るような切なさが含まれていた。
しのぶは伏し目がちに頭を垂れた。川西和歌子も相原しのぶにこう話したのだろうか。強く、けれど優しく、彼女を勇気づけるように。
「しのぶさん。川西さんは貴方になにを残していきましたか」
川西の名に反応するようにしのぶが顔を上げた。けれど、彼女の口は閉じられたままだ。
緑茶が入った湯飲みを春夏冬はテーブルに置いた。茶托がかたり、と鳴る。
「一つだけ、僕がアドバイスするなら……。『一貫性バイアス』というものをご存じですか? 人物がとっている態度やスタンスが、将来に向けても一貫性のあるものだと捉えてしまうことです。『本当はあの人はいい人』『お酒さえ飲まなければ優しい』といったものはこれに該当します。あの男にこれ以上期待するだけ無駄ですよ」
淡々と告げる春夏冬にちらり、と秋良が視線を向ける。春夏冬はわざとらしく頬杖をついて、彼女がいる方とは逆方向へ顔を向けた。
「対等ではない関係なんて、間違ってます。しのぶさん、選ぶのは貴方です」
ゆっくりとしのぶの唇が開く。懐かしさを滲ませながら。
「……和歌子さんも同じようなことを。『選ぶのは貴方よ』って。いつからか、私はなにも選べなくなってました」
ふっ、としのぶの薄い唇が弧を描いた。
「夫を恐れて逃げ出すこともできない私を見て、和歌子さんは日記を書くように勧めてくれたんです。それがDVの証拠になるからと。でも日記帳を家に置けばすぐ夫に見つかるし、メールも電話も彼が監視しています。それで、彼女がフリーのメールアドレスを作ってくれたんです。下書きフォルダに日記を置けば見つからないからと」
しのぶが自身のスマートフォンを秋良に差し出す。秋良は教えてもらったIDとパスワードでログインし、彼女の日記が下書きフォルダにあることを確認する。
数件目を通しただけでも、しのぶが受けた苦しみや辛さが見て取れたのか、秋良の眉間に皺が寄る。
「でも和歌子さんが置いていったスキンケア用品のサンプルで夫にばれてしまった。あの人は怒り狂いました。それでも、和歌子さんは夫がいない間に訪ねてくれた。……大人になっても友達ってできるものなんですね。夫が和歌子さんのことを付け狙っていたことは知っていました。和歌子さんは笑いながら『大丈夫』って。
……あの人、この間の夜、どこかへ出掛けたかと思うと、ケーブルを握りしめて戻って来ました。興奮状態でこう言ったんです。『あの女を見つけた。俺には刃向かえばお前もこうなるぞ!』って……」
家の中が静まり返る。
「……夫が和歌子さんを殺したのでしょうか」
「しのぶさん、そのケーブル、まだありますか? あるのであればお借りしたいのですが」
「捨てろと言われたけど、どうしても捨てられなくて、庭に埋めたんです。あれは、和歌子さんのためになりますか……?」
しのぶの声に嗚咽が混ざる。春夏冬はかろうじて聞き取れた。
「ええ。……そして、貴方のためにも」
ぽたぽたと涙が落ちるしのぶの手を握りながら、秋良が答えた。
割れたマグカップの破片を踏まないように春夏冬はキッチンから出る。健一郎から目を離すことはしなかった。
この手の奴は頭に血が上るとなにをしでかすかわからない。いくら警察官である秋良に武道の心得があったとしても分が悪い。性差があるし、そもそも春夏冬は腕っ節に自信がない。身を守るには先制攻撃しかない。可笑しな動きをした瞬間蹴り飛ばす。これしかない。
突如、秋良のスマートフォンが鳴った。
秋良は相手と「はい」や「わかりました」を数度繰り返したあと、「ありがとうございます」と言って通話を切った。そして、相原健一郎を真っ直ぐ見つめる。
「健一郎さん、三点ほどご報告が。ひとつめは川原さんのマンションで貴方を目撃したという証言が出てきたこと。ふたつめはしのぶさんに提出して頂いたケーブルから、川西さんのDNAが検出されたこと。そしてみっつめは──彼女の家に残されていた指紋が貴方のものだと判明したこと」
凜とした声が響く。
「もう逃げられません。ご同行願います」
健一郎は呆然とした表情のまま、ただ立ち竦んでいた。数秒経ったあと我に返り、「俺じゃない」「なにかの間違いだ」とぶつぶつと呟き出した。両手で髪の毛を思い切りかきむしる。
「あの女が……あの女が悪いんだ! しのぶに妙な入れ知恵しやがって! あいつは俺がいないとなにもできないんだ! だから俺があいつを躾けて──!」
「〝躾ける〟? とんだ言い草だな。伴侶ってのはあんたが好きにしていい存在ってわけじゃねえよ」
体の底から怒りが湧く。目の前の、傲慢な男が許せなかった。
「それに、彼女がなにもできないようにしたのはあんただろ。他者を尊重できない奴が、他者から尊重されると思うなよ」
吐き捨てるように春夏冬が言う。健一郎の体が異様なほどぶるぶると震えた。目が据わっている。春夏冬のほうを見て。
男の体が動く。その瞬間、横から──秋良が──健一郎にタックルした。
それからは一瞬だった。待機していた警察官が突入し、あっという間に健一郎を制圧していた。確保、と大声で叫んでいるのが聞こえる。
騒ぎの中、秋良が警察官の大群から抜け出し、春夏冬の元へとやってくる。春夏冬は手を彼女へ差し出した。
「……手、貸してください。腰抜けちゃった」
「わざわざ煽る必要はなかったのでは?」
秋良が春夏冬の手を掴んで立ち上がらせる。そこにはいつも通りの無感情な顔があった。
「わざわざタックルかます必要ありました?」
「一般人に怪我させられるわけないじゃないですか。これでも警察官ですよ」
そういえばそうでしたね、と春夏冬はへらり、と笑ってみせた。
◇
少しばかりですが謝礼が出せそうなので、と後日春夏冬は秋良から連絡を受け、会うことになった。
川西和歌子の後任をしていたときの服装ほどではないが、それなりに見た目に気を遣った格好をして、春夏冬は指定された喫茶店へと出向いた。
別に秋良のことを意識したとか、そういう類いではない。断じて。
春夏冬のアイスコーヒーが半分ほどなくなった頃、秋良は姿を見せた。
「お久しぶりです。春夏冬さん」
「……どうもぉ」
ひらひらとやる気なく手を振ってみせる。
秋良は特に反応もせず、やってきた店員にコーヒーを注文していた。こういう人だよな、と春夏冬は心の中で思う。
「相原健一郎、無事に立件できそうです。ご協力ありがとうございました」
「詐欺師に殺人罪まで重ねられちゃたまんないですしねえ。……つーか、仲間意識なんてないですけど」
手持ち無沙汰に喫茶店のメニューを見る。先ほどまで小腹が減っていたが、どうにも今は、なにも入りそうにない。
健一郎によって生きる力を奪われていた女性の顔を思い出す。
「相原しのぶはどうなりましたか?」
「ご実家で心身ともに療養中です。……本当に良かったです。しのぶさんを支援してくださる人がいて。周りの理解と協力を得られるのが一番ですから。もう、なににも怯える必要のない生活を送っていただけるように、私たちも仕事に励まないとですね」
ほっとしたのもつかの間、春夏冬は秋良の発言にぴくり、と眉を動かす。
「さらっと僕も含めてません? 僕の仕事が治安維持に繋がるとは思えないんですけど」
「繋がりますよ。まわりまわって、多分。こう、鬱憤を晴らす的な意味で」
「てきとうだな~。なんとなくわかってきましたけど、そういうところ大雑把ですよね」
「O型だからでしょうか?」
「関係ないと思いますが。てか血液型診断とか信じてんですか? うわ~」
きょとん、と首を傾げる秋良を見て、春夏冬はどっと疲れを感じた。わざとなのか天然なのかわからない。
ふと窓の外に目をやると、ランドセルを背負った子供たちが跳ねるように歩いていた。それを見て、教師だった健一郎を思い出したのか、秋良が口を開いた。
「健一郎さんは非常に人気な教師だったようです。革新的な授業方針だったとか。テストに一問だけ、その学年の子には絶対解けないような応用問題を出すんです。それを解こうと、必死で休み時間も別の科目のときも取り組む子を見て、周りの子たちは馬鹿にしたそうなんですが、彼はこう言ったと。『なにもかもを捨てて、わからない一つのことに食いついていける人間の中から、歴史的な「天才」が生まれるんだ。自分の価値観で人を馬鹿にしてはいけない』と」
淡々と秋良が話す。無感情にも見えるが言葉の底のほうでなにか重いものがくすぶっているような気がした。
「彼に救われた子供も、気付かされた子供もいるでしょう。でも、その一方でしのぶさんに暴力を振るっていた。……やるせません」
秋良の呟きを、春夏冬は気だるげに頬杖をつきながら聞いていた。目を瞑って考える。健一郎の庇護下で未来へと胸を膨らませる子供たちと、健一郎の暴力による支配に怯えるしのぶ。どちらも現実だった。
「すべての面が悪に染まった人間なんていませんよ」
春夏冬がゆっくりと目を開けると、さきほどと変わらない喫茶店の風景と秋良の姿があった。
「罪を犯した人間の言葉に救われたとしても、それがなかったことにはなりません。救われたという事実はただの事実です」
「……そうですね」
からん、とアイスコーヒーの氷が音を立てて崩れた。
「あら、加藤さん!」
突然背後から声をかけられ春夏冬はぎょっとした。振り向くと、そこには余語きよみが立っていた。
春夏冬は脊髄反射で反応する。
「き、きよみさま……! どうもご無沙汰しております」
「あら、お取り込み中? ごめんなさいねえ」
春夏冬の前に座る秋良を見て、きよみは目を輝かせながら口元に手を寄せる。秋良はぺこり、と軽く頭を下げた。
「でも、あれ以来ぜんっぜん来てくれないんだから~。あの水を飲んでからねえ、すっごく肌の調子がいいのよお。また来てちょうだいね」
きよみは春夏冬に相槌を打たせる間もなく嵐のように一息で言うと、お友達のマダムたちがいる席へと戻っていった。
「……ですって、春夏冬さん」ときよみのことを目で追いかけながら秋良が言うので、「思い込みって凄いですねえ……」と春夏冬は答えるしかなかった。プラシーボ効果だろうか。
人差し指を額に当てながら溜め息をつく。ふと春夏冬は悪戯を思いついた。
「あっ、秋良さんもいります? 『コラーゲン入りミネラルウォーター』」
「いりません」
秋良は愛想なく、バランスが危ういアイスコーヒーの氷をストローで突いていた。
そんな彼女を見ながらどこかほっとしている自分がいる。
友人と談笑するきよみを見ながら、春夏冬は氷が溶けて水っぽくなったコーヒーを吸う。
「誰のことも疑わずに、世界の醜い部分を見ずに生きてきた人が、心の底から羨ましいと思うときがあります」
「そうしたらいいのでは?」秋良が小さく首をかしげる。
「まさか。ご冗談でしょう」
はっ、と春夏冬は冷笑する。自分自身に向けた笑いだった。
「『人を騙して』しか生きられない人種なんですよ、僕は。根っからの『嘘つき』なもので」
「……私はそうは思いませんが。春夏冬さんは立派に社会復帰されてると思いますよ」
「僕に詐欺師まがいのことさせた人の言葉とはとても思えませんね」
「確かにそうですね。とはいえ、もうこれは不要でしょう」
春夏冬がそもそも秋良に協力する羽目になったあの動画がスマートフォンに映される。彼女の指先がすっとごみ箱のアイコンに触れた。
「復元なんていくらでもできるんでしょ?」頭の後ろで両手を組みながら春夏冬が尋ねる。
「できるけどしませんよ」
「どうだか。……まっ、今回は信用してさしあげますよ」
「それは良かった」
秋良が伏し目がちにコーヒーを飲む。
ちょうど昼時になり、店内が混雑してくる。秋良が邪魔にならぬようにそろそろ出ようかと思案しているのがわかった。彼女と目が合ったとき、意を決して春夏冬は言った。
「秋良さん。今度都合のいいときに、ご飯でもどうですか?」
「……それって、もしかして私のことを〝女性〟として誘ってますか?」
「え? まあ……そう、ですね……」口から歯切れの悪い言葉が出る。
「戸籍上はまだ〝男性〟ですよ。いえ、『も』と言うべきでしょうか……。私はトランスジェンダーなので」
「トランスジェンダー?」
「性別移行者です。私にご興味があるならぐぐってください。承知したならまた連絡ください。では」
秋良はテーブルの上の伝票を引き抜いて立ち上がる。口には笑みを浮かべていた。綺麗な笑みだと春夏冬は思う。
この出会いがどう転ぶのか春夏冬にはわからない。ただ、今は、スマートフォンで「トランスジェンダー」について調べていた。彼女のアイデンティティがなんだろうと構わない。春夏冬には秋が必要だ。スマートフォンの画面に指を滑らせる。
三コール後に彼女が出た。
「ずいぶんお早い連絡ですね。……なに食べますか?」