林檎の香りから始まるマティとコーラスの初恋3

自白

 重なった講義で、すれ違った廊下で、混雑した食堂で。だだっ広い庭園でも、彼だけはすぐ見つけられた。

 それが何故なのか、僕にはまだわからなかったけれど。

 

 ◇◇◇

 

 コーラスは図書室でユリウス・アーキンと向き合って座っていた。

「ああっ! なるほどね、わかった!」

「……このやり取り三回目だけど? 本当にわかったの、アーキン」

 大丈夫、大丈夫! とコーラスの言葉に軽快に答えながらユリウスは問題を解き出した。

 マーティン・ヨハンソンからユリウスの面倒を見る役を奪ったものの、彼に勉強を教えるのは骨が折れた。植物以外にはてんで興味を示さないし、集中もよく途切れる。

 それでも根気強くコーラスはユリウスに付き合った。マーティンから奪った手前、今更放棄するわけにもいかないからだ。

 どうしてこんなことになったのか。そもそもの発端を思い出し、コーラスはぽつり、と呟いた。

「……君って、ヨハンソンと愛称で呼び合うくらい仲良いの」

「マティ? うん。良いやつだよ。めちゃくちゃ世話になってるし」

 他愛ないことのように話すユリウスに、どろり、と黒いなにかが溢れ出すのをコーラスは感じた。

 ──出会ったのは僕と同じくらいだろ。なのに、どうして君だけが彼と。

 ユリウスがマーティンと仲良くなれた理由など、コーラスは言われなくてもわかっている。わかっているけれど、腹の底では認めたくなかった。彼が好かれて、自分だけが嫌われているだなんて。

「アーキンは、ヨハンソンのこと、好きなの」

 コーラスは小さく呟いた。

 マーティンだけがユリウスを好きなら、少しだけ救われる気がした。でも、きっと、そんなことはないのだろうなとも思う。マーティンを嫌う人間などあまりいないだから。

 ユリウスはぽかんとした顔をしていた。

「どういう意味で? 友人としてはそりゃそうだけどさ」

 たぶん、そういう意味ではないんだろ? とユリウスは困ったように言う。

 コーラスは答えられずにいた。それを肯定と受け取ったユリウスは、真面目な顔をして話を続けた。自身の秘密に触れながら。

「恋愛はないよ。だって俺、アセクシャルだもの。他者に性的欲求を持たないってやつ。そういえば、俺は恋愛感情も持ったことないな」

 ユリウスの告白に、こくん、とコーラスの喉が鳴る。

「……ごめん。君にそこまで言わせるつもりはなかった」

「いや、いいよ。話した方がすっきりするってマティと会ってわかったし。他人と違うっていうのは結構しんどかったけど、今はそうでもないんだ」

「そう……」

 きっと、彼とマーティンの間には、かけがえのない時間があったのだろうと思う。その証拠に、初対面のときに人を拒否していたような雰囲気は今のユリウスにはない。

 ──そういう男なのだろう、マーティン・ヨハンソンというのは。誰かの運命を知らずしらずのうちに変えてしまうような。そんな男なのだ。

 僕も君のこと「ユウ」って呼んでいい? とコーラスが尋ねると、いいよ! とユリウスはにかっと笑った。

「でも驚いたなあ。コーラスはマティのこと嫌いなんだと思ってた」

「……嫌いだよ。嫌い以外になにがあるのさ」

 嫌いで、嫌いだからこそ彼の一挙一動が気になるだけだ、とコーラスは思う。

 ユリウスはきょとん、とした表情を浮かべた。

「だってそれ、君たちがよく言う〝嫉妬〟てやつなんじゃないの?」

 コーラスは絶句した。

「はっ、はあ!? そんなわけないだろっ!!」

「そうかな? まあ、それならそれで俺は別にいいんだけど……」

 憤慨するコーラスを無視して、ユリウスは問題用紙に視線を落とす。そのまま数秒固まったあと、顔を上げてコーラスを見た。

「ところでコーラス、もう一回説明頼んでいい?」

「やっぱりね! そうだろうと思った!」

 

 ◇◇◇

 

 薄暗くひんやりとした中廊下を歩きながらコーラスは考えていた。

 ──僕はマーティン・ヨハンソンのことが好きなのだろうか。

 なにかと理由をつけて彼の姿を探したり、彼に軽口を叩いたり、彼に気付いて欲しいような、気付いて欲しくないような気持ちになるのも。もしかすると、自分が彼に恋しているからではないだろうか?

 恋をしている。そう自覚した瞬間、コーラスの顔は赤に染まった。頬が熱を持つ。

 彼からサシェを受け取ったあの日、一瞬だけ触れた熱を思い出して、微かに指先がしびれた。

「ヨハンソン……」

 ぽつり、と彼の名前を呟いてみる。

 ふと、コーラスは思い出した。マーティンが自分に振り向いてくれるわけがないということに。

 自分は彼との初対面のときになにを言った? 彼の容姿を貶し、視界に入れたくないとまで言った。

 そして彼は、その言葉に傷付いていたではないか。

 どうしよう。どうすればいい。今更謝って許されることなのだろうか。コーラスが謝れば、きっと彼は許してくれるのだろう。けれど、それは彼の心を癒やしはしない。

 そう考えたとき、ふわり、と林檎の匂いが香った。

 そうだよ。この香りさえあれば、僕は生きていける。だから、彼をこれ以上傷付けないように、僕は、彼に近付かないことにする。

 そうしてコーラスは、マーティンへの恋を自覚すると共に、その想いを奥深くへと仕舞い込んだのだった。

 

 今日も今日とて教授から補習を言い渡されたユリウスに付き合い、マーティンは教室に残っていた。

「……なんだか最近のコーラスは大人しいね」

 ぼんやりと窓の外を見つめたままマーティンが呟くと、「そう? わりと好き勝手にやってるように思うけど」と声が返ってきた。

「そうなんだ。僕にはあんまり突っかかってこなくなったから、てっきり。ユウは彼と話すの?」

 コーラスは問題児だが、成績面は優秀だった。なのでリレラによる全体指導以外では、マーティンが彼に会う機会はあまりなかった(ちなみに対人面もリレラの注意でかなり改善されたように思う)。

「うん、結構話すよ。コーラスは綺麗なもの好きだから、花が咲いたら見せてるんだ。この前、あいつが冷凍保存しだしたから喧嘩になったけど」

 コーラスらしいな、とマーティンは口元を緩める。ユウはたまったものではなかっただろうな、とも思った。

『手伝ってあげようか』

 あの日、植え替えの手伝いを申し出たのは、彼の気まぐれだったのだろう。これ以上考えるのは時間の無駄だ。

 そうマーティンが結論づけたとき、「出来た!」と補習のプリントを終えたユリウスの元気な声が聞こえた。

 

 ◇◇◇

 

 コーラスがマーティンを避けるようになってから数日が過ぎた。

 サシェの林檎の香りを頼りに、彼らに手間をかけないよう、大人しくコーラスは日々を過ごしていた。

 ある日、中庭へと繋がる外廊下で周りに人がいないことを確認してから、コーラスは胸ポケットからサシェを取り出した。

 サシェからは微かに林檎の香りがする──はずだった。

「香りが……しない……」

 呆然とした声がコーラスの唇から溢れる。

 日が経ったサシェからは、もう林檎の香りはしなかった。

 このサシェは、マーティン・ヨハンソンからコーラスが初めて貰ったものなのに。彼とコーラスの時間が交わった唯一の物なのに。香りが消えたことで、彼とのガーデンでの時間も消えてしまった気がした。

「……林檎くらい、カフェテリアに置いてるさ」

 そう呟くと、コーラスはカフェテリアへと向かった。

 昼時でもないカフェテリアはがらん、と静まりかえっていた。コーラスはカウンターの向こうで作業している職員に声をかける。

「あの、林檎ありませんか」

「林檎? ああ、さっき来た生徒にあげちゃってもうないのよ。明日から天気が荒れるらしいし、入ってくるのは当分先かもね」

 それだけ言うと職員は厨房の奥の方へ入ってしまった。

『林檎はね、〝初恋の香り〟なんだって。甘酸っぱくて少し切ない恋の香り』

 そう語るマーティンの姿を思い出す。

 サシェの香りは消え、林檎は手に入らない。初恋の香りは、もうどこにもなかった。

 じわり、と視界が滲んでくる。もうどうにもならない。マーティンとの微かな繋がりは断たれてしまった。たとえそれがコーラスの一方的な思い込みだったとしても、重要なことだったのに。

 ヨハンソン、とコーラスの唇が微かに動く。

 そのとき、カフェテリアの入り口から誰かの声が聞こえた。

「──コーラス? こんなところで何を?」

 その瞬間、コーラスは駆け出した。

 

 カフェテリアの外席へと繋がるドアから出て、どこに向かうかも考えずにただただ走った。曲がり角で、前をあまり見ていなかったコーラスは誰かとぶつかった。

「いたっ! ……ってコーラスじゃない。ちゃんと前を向いて歩きなさい──」

 コーラスがぶつかったのはリレラ・ベーレンスだった。いつもならさらに小言が続くが、彼女はコーラスの姿を見て慌てたようだった。

「リレラさんっ、ごめ、んなさ……」ぼろぼろとコーラスのアンバーの瞳から涙が零れる。

「どっ、どっ、どっ、どうしたの、コーラスっ! なにかあった!?」

 がばり、とコーラスの両肩を掴み、心底心配そうな顔をしたリレラが尋ねる。

「りんご……」

「林檎?」

「りんごのかおりがほしい……っ」

 そう言い終わると同時に、ついにコーラスはしゃくり上げるように泣き出してしまった。

「林檎ならカフェテリアで頼めば……」

 困惑したままリレラは答える。ふるふる、とコーラスは首を振るが、真意は彼女には伝わらなかったらしい。

 コーラスの後ろから誰かの足音が聞こえた。

「リレラさん、どうやら今は納品待ちだそうです。今後の天気を見るに、早くても一週間後とかじゃないかな……」

「マティ!」

 この状況を変えてくれるであろうマーティンに、リレラは期待の眼差しを向ける。

 が、彼の言葉を反芻し、その可能性が低いことに気が付いた。一週間後では、今、この瞬間のコーラスを泣き止ませることは出来ないだろう。

 マーティンの声を聞いたコーラスは、さらに大粒の涙を零した。

 がさり、と頭上の木々が大きく揺れる。それからばさり、と黒いなにかが降ってきた。長い黒髪が宙を舞う。

「林檎がなんだって? ……ったく、騒がしくておちおち寝てられない」

 木から下りてきたのはウザキ・コボルトだった。手には青林檎を持っており、かしゃり、とこれみよがしに一口齧る。

 リレラはウザキの手から林檎を奪い取り、コーラスに渡した。

「ほら、コーラス! 林檎よ!」

「……リレラ、それは俺の林檎なんだが」

「あんたは一週間待てるでしょ!」

 ウザキは納得いっていないような顔をしていたが、いつもとは違うコーラスを見て、林檎を取り返すことは諦めたようだった。

 リレラから林檎を受け取り、ふわりと漂った香りがコーラスの胸をいっぱいにする。

 その様子を見つめていたマーティンは、ぽつり、と呟く。

「もしかして──〝初恋の香り〟?」

 ぴくり、とコーラスの肩が震えた。

 マーティンの発言を聞いて、リレラははあ? という表情を浮かべる。突然、脈絡のない発言をしたマーティンを訝しんでいるらしかった。

「前にコーラスと話したんですよ!」焦ったようにマーティンは説明する。

「つまりこの子は失恋して泣いてるってこと?」

「いや、僕に聞かれましても……」

 情けない奴、と呆れたように吐き捨てるウザキに、あんたはまたそういうことを! とリレラが叱る。

 二人がわいわいと言い争う中、マーティンはコーラスの様子を静かにうかがっていた。

 ふと、コーラスが顔を上げると彼と目が合う。

「ヨハンソンは、ぼくを、すきにならないでしょ……?」

 ぽろぽろと涙を零すアンバーの瞳にはマーティンだけが映っていた。

 

 胸を焦がすような熱を浴びながら、マーティン・ヨハンソンは頭を殴られたような衝撃を受けていた。

 ──ぼ、僕かー!!!

 コーラスを泣かせた張本人はまさかの自分だったらしい。

 女の子との淡い表面上の恋愛は経験したことがあるが、男の子とは一度もない。そんな自分がはたしてコーラスの思いを受け止めることが出来るのだろうか。どうだろう。そもそも彼は自分のことを嫌っていたのではなかったか。

 マーティンはちらり、とコーラスを盗み見る。

 彼の美しい瞳は真っ直ぐにマーティンを見つめていた。

 

「マーティン・ヨハンソン、僕は──君のことがすき」

 

 彼のこの告白をどうするべきか。それが問題だ。

afterword

マティコー連作は一応これで終わりです。「僕かー!」となっているマーティンさんが書きたかった。
2022.04.03

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