カケとエウリディケ

この夜の普遍

 ざあざあ、と窓の向こうから雨音が聴こえる。今日は洗濯物が乾きそうにないな、と硝子にぶつかる雨粒を見ながらカケ・ダグラスは思った。

 雨の日は気が滅入る。とはいえ課せられた労働は免除されるのだから、『賢者の子』としてこの時間を利用して勉学に励むべきなのはわかっているが。

 賢者──すべての事象・情報が蓄えられた記憶層に入れる唯一の者。次期賢者の候補者のことを『賢者の子』と呼ぶ。

 カケは九人目の『賢者の子』ではあるが使用人でもあった。本来『賢者の子』には富裕層出身が多い。理由は単純で、勉強するには金がかかるからだ。

 カケの母は娼婦だった。貧乏で恵まれた環境とは言えなかったが、それでも彼女の絶え間ない努力は実を結び、初めて貧困層から『賢者の子』として選ばれた。そのときからカケは此処──賢者の里で──使用人として働いている。

 しかし若い頃の無理が祟ったのか、カケの母親は早くに亡くなった。母の仕事を誇りに思う。ここまで自分を育ててくれたことも。

 自分は母に似て物事の覚えが良い。残された本で必死に勉強し、そうしてカケは母の思いを継ぎ『賢者の子』となった。

 

 雨が降るとカケは「賢者を目指そう」と思ったあの肌寒い日を思い出す。

 周りは気に食わない連中ばかりだが負けてはいられない。そう思い机に向かうと、部屋の隅のアルコールランプの火が揺れた。ふわり、と花の香が舞う。

「たまには息抜きも必要だと思うわ」

 そこには机の端に腰掛け、柔らかな笑みを浮かべた女の子──エウリディケ・ハンフリーがいた。

 色素の薄い金色の髪に銀のフレームの眼鏡をかけている。ある呪いを受け、その治療のために賢者を訪ねに来た学者の娘。

 彼女は機知に富んでいて、カケは好ましいと思っていた。彼女に想いを寄せるのが不相応だとも理解しているが。

「でも……僕は……」

 勉強をしないと、と呟きながらカケはインクも付けていないペン先を振る。

「では詩の朗読にしましょ? 私、貴方の声が聴きたいわ」

 顔を近付けながら、心底困ったような表情で彼女が言う。ぐ、とカケは狼狽えた。距離が近い。

「ね、お願い」

 甘えるような、それでいて甘やかすような彼女の声に、観念してカケは記憶の中の詩集を開く。

 気落ちしている自分を気遣って彼女は来たのだろう。なんとなく、そんな気がした。温かい何かがカケの心を満たす。朗読のあとは詩の解釈について彼女と話すのも悪くない。

 

 今度またこんな夜が来たら、僕はこの詩を思い出すよ。たとえ隣に君がいなくとも。

afterword

2021.7.8

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